門司ゆかりの人物

人物名は、五十音順で掲載しています。
アインシュタイン博士 (1879〜1955)1922年(大正11年)にアインシュタイン博士夫婦が旧門司三井倶楽部に宿泊した。
明石与次兵衛 1592年秀吉は、母の急病を知り、大阪に戻る途中大里の沖合いで、岩礁に乗り上げ、海に放り出されました。この責任をとり船奉行であった明石与次兵衛が切腹をしました。 関連は、めかり地区の史跡。
足利尊氏 (1305〜1358)室町幕府の初代将軍です。門司港の甲宗八幡宮に寄港し、門司氏(旧藤原)などの北部の武士団を率いて、京都を奪還するために船出をしました。
安徳天皇 源平合戦で知られる平家一族が、合戦の間、 海上生活を送っていた一時期、安徳帝の仮の御所があったと伝えられるのが大里の御所神社。
石原宗祐 1732年大凶作で、飢餓地獄になりました。この飢餓を機に大里村の庄屋が、1738年に庄屋職を息子に譲って、猿喰湾の開拓をはじめました。関連は、猿喰新田。
伊能忠敬 1809年12月に測量をする為に北九州にはいりました。
小笠原忠真(ただざね) (1596〜1667)細川のあと、1632年豊前小倉15万石の藩主になった、徳川家康のひ孫。江戸時代になり、参勤交代が始まりました。小笠原忠真は、大里村に宿場を作りました。 関連は、大里宿場跡。
加藤清正 (1562〜1611)は、戦国時代の模範的武将であり、また、日本三名城・日本三堅城の一つである熊本城の築城などをした。 関連は、大里地区の史跡、清正公道。
柿本人麻呂 門司を詠んだ歌人の一人です。関の浜を詠んでいます。現在の東新町あたりです。
清虚 1837年青浜の小高い丘の上で毎晩火を焚く1人の僧が住み着きました。海峡を航行する船の安全を願って灯台の役目をしていました。この僧が、清虚です。清虚は、1850年まで、13年間毎日火を絶やす事なく、焚き火を続けました。関連は、僧清虚像。
空海(弘法大使)

遣唐使として中国から帰還中の空海(弘法太子)が戸ノ上山に霊感を感じ、唐から持ち帰った観世音尊像をここに祀ったともいわれている。

清水正次郎 1911年陸軍大演習統監のため久留米へ向かう明治天皇の乗る御料車を門司駅構内で脱線させた責任から、幡生トンネルで自殺した。
友石てきどう 1868年畑の二十田に集成舎を設立し、1880年松ヶ江村民有志の要望により畑の二十田に晩翠校を設立するなど、地域の教育に貢献した。
豊臣秀吉 (1537〜1598)1597年小倉城に入った秀吉は、岩石城を半日で攻め落とし、九州の大名の配置を行いました。
林扶美子 門司区生まれの作家。文学碑が門司区羽山にある。林扶美子の愛憎品は、旧門司三井倶楽部2階とめかりの国際会員会館1階に展示されている
藤原親房 鎌倉幕府の中心を北条泰時が継いだのを機に、北条泰時は、関門海峡に面した門司を西国で一番重要な要と考え門司に地頭職を置きました。地頭職には、藤原親房をおいた。11年後、古城山の頂上に城を築いて、本城としました。 関連は、門司城址、門司関址。
明治天皇 明治35年、熊本での陸軍大演習統監のため、大里に上陸した。
平家 平家の落ち武者が門司にかなり上陸をしている。新門司地区の黒川、大積に特に多くの史跡が残っている。関連 大積天疫神社他
源氏 関門海峡で壇ノ浦の源平合戦があった。源氏の子孫の一部も新門司地区の黒川に住んでいる。

門司の名所・旧跡巡り