城 跡

寒竹城址 文治年間に、藤原親房によりもじ城の端城として築城され、親房の子親光より代々居住した。1333年鎮西探題攻めの合戦に城主もじ親胤が参戦し、足利尊氏から感謝状が贈られたことから尊氏との縁が出来、後年北朝側につくことになった。応永の頃、もじ親俊が城主となったと伝えられている。
金山城址 門司支城のひとつで、文治年間門司親房の築城とされる。南北朝時代の門司一族分裂時には、北朝方についている。 1561年の門司合戦の時、大友軍の攻撃に備えてもじ城防衛のため、毛利氏が修築したともいわれる。1566年金山城主が薬王寺に金鼓を奉納したと伝えられている。 場所:おおつみ おおつみ小学校前バス停下車。
猿喰城址 もじ城の出城の一つで、南北朝の争いに巻き込まれ、一族で争いをした城址です。大久保山に、門司若狭守親頼が猿喰城を築城しましたが、戦乱の中で二派に分裂、同族の柳城主親通は、南朝方から北朝方へ寝返り計略のもとにさるはみ城を落城させました。 現在は石塚が残っているそうです。 当時のものかは、はっきりしません。 場所:おおわざさるはみ 城山霊園前バス停下車。
東明寺城址 1559年、大友氏が企救半島を支配下に置いた時、仁保帯刀を門司城主とし、その出城として築城された。現在は竜門町林間公園となっている。場所:東門司2 テニスコート前バス停下車。
陣山城址 畑城とも言う。門司城の支城で大内氏の家臣柳田氏の居城と伝えられる。山頂に本丸があったという伝説が残っています。場所:おおわざはた 畑バス停下車。
三角山城址 鎌倉時代の初めに、もじ領主門司親房が、門司城の支城として築いた。 別名は鶴城。南北朝時代は、北朝側につき、1561年のもじ合戦では、大友宗麟の軍が城を包囲し、寝返りの意を示した三角城方の家臣と示し合わせて城を攻めようとしたが、守将杉彦三郎が、家臣の寝返りを察知して逆手にとり、大友軍を打ち破ったという伝説が残っている。 場所:門司

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